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レイカの水稻班日記

宜蘭小農食譜

-水稻クラス 第 3 回

日期:(三月第二週開講)2023.3.11

天氣:啨

距離上次來到田裡,已經過了一個禮拜。仔細觀察後,可以發現一些秧苗沒被確實插在田裡或因為連日強烈的艷陽而死亡。每個缺少秧苗的部分都大約只有我手掌大小,如果只是茫然地看著整塊田區,你可能根本不會注意到這些問題。
前回から一週間が経った、私たちの田んぼ。よく観察すると、苗を植え損ねている箇所や、連日強い陽射しを浴びたせいでいくつかの苗が駄目になっている箇所があることに気付く。それぞれの苗が欠けている箇所の面積は、私の手のひらの大きさほどでしかなく、ぼーっと田んぼ全体を見渡しただけならばきっと気にも留めないだろう。
我小心地走在苗和苗之間,進行補秧。
だけど実際のところ、そこには本来、稲一株(苗3〜4本)が植えられ、おおよそ茶碗半分ほどの穂が実る可能性があるのだ。決して無視はできない。
這裡的秧苗,都是上週才從育苗箱移植至這片水田,根部還並不穩固,而且不可靠。每當水波在我腳下湧起,它們就會搖搖晃晃地嘗試站穩腳跟。這種可愛的滑稽感讓我十分喜愛。
ここにいる苗はみんな、先週に育苗箱からこの地(田んぼ)へ引っ越してきたばかりでまだ根の張りが浅く、頼りがない。私の足元からさざ波が湧き上がる度に、体を傾けながらなんとか踏ん張ろうとしている。その滑稽さがなんとも愛おしい。
在另一片水田,楊文全老師正駕駛一台裝有類似鏟子的大型拖拉機(後來才知道那就曳引機),正在進行整地作業。整地是指把水田耕作區域弄的更平坦,並混合土壤和水,以創造最適合種植的環境。
別の田んぼでは楊(ヤン)先生が、後ろにシャベルのようなものが付いた大きなトラクターで、代掻きをしている最中だった。代掻きというのは田んぼを平たくし、さらに土と水をかき混ぜて田植えに最適な環境を整える作業のことである。
試著坐進曳引機的駕駛座,我發現到處都是彩色的手把和開關,對我這個連手排車都不會開的人來說,是一個未知的領域。
試しにトラクターの運転席に座ってみると、至る所にカラフルなハンドルやスイッチがあって、マニュアル車も運転できない私にとってそこは未知の空間だった。
曾經有一位農民說過:「農民從來不會閒著。身邊總有許多事情需要處理和學習。」現在我終於明白這句話的真正意義。我從未想過,種植水稻所需的技能之一居然是“駕駛曳引機”,這讓我很驚訝。
いつか、ある農家の方が「暇な農民はいない。いつも目の前にすべきこと・学ぶべきことが山ほどある。」と言っていたが、その意味が今になってはっきりと理解できる。田植えに必要な技術の中に“トラクターの操縦”の項目があるなんて、思いもしなかった。
下午是第一次參加美虹姐的料理課程
午後は、第一回目の美虹(メイホン)さんの料理クラス。
在課程開始之前,美虹姐問了兩個問題:“為什麼要吃”和“對你來說,料理是什麼”
クラスをはじめる前に美虹さんが問いかけたことが二つ、「なぜ食べるのか」、「あなたにとって、料理とは」。
因為當時無法很好地表達自己的想法,所以現在在這裡整理一下。
自分の考えをその場で上手く伝えることができなかったので、ここにまとめようと思う。

「吃是為了什麼?」

「なぜ食べるのか」

我當時的即興回答是「因為身體需要」。
私がその場でとっさに答えたのは、「体が欲するから」。
我喜歡聆聽身體的聲音來考慮當天的菜單。當胃腸不適時,身體會說「想要吃豆腐味噌湯」,有時也會說「非常想吃肉!」然後隔天生理期就來了,這些都很有趣。
体の声を聞いてその日の献立を考えることが好きだ。胃腸が弱っているとき、体は「豆腐のお味噌汁が飲みたい」と言うし、めずらしく「無性にお肉が食べたい!」と言ったかと思えば翌日ちょうど生理が来たりするのもおもしろい。
舉個例子,當我還住在日本的家裡時,每次從外面回家,我想吃的當天菜色總是已經準備好了。問媽媽怎麼知道,她總是回答說:“就突然想吃。” 和母親一起共同生活的兒女,意見總是神奇地和母親完全一致。這並不是“補充營養”或“合胃口”這樣的詞彙可以解釋清楚的。
例えば、私がまだ日本の実家に住んでいる頃、外から帰宅するといつも食卓には私が思うその日食べたいものが用意されていた。なぜかと母に聞けば、「急に食べたくなっちゃって。」と言う。毎日の生活を共にする母と、母から生まれた娘の体は、いつも不思議なほどぴったりと意見が合うのだった。“栄養補給”や“舌が合う”という言葉で説明がつくものではない。

——「吃是為了什麼」

有些人回答說「因為好吃所以吃」,但對我而言,首先是聽從身體的需求而吃。只有當我吃到身體渴望的食物時,才能真正從心底感受到食物美味。(… 如果我說出這樣的話,是否會被認為是一個理論的、煩人的人呢?)

——「なぜ食べるのか」

「美味しいから食べる」と答えた人もいたけれど、私はまず、体が食べたいと言うから食べる。体が欲するものを食べた時にはじめて心の底から美味しいと感じられるから。(…などというと、理屈っぽく面倒くさい人間だと思われるのだろうか。)

——「料理對你來說是什麼?」

——「あなたにとって、料理とは」

我認為這是“尊敬的心”。 尊敬天地、生物、農民、烹飪者、食用者的心。 懷著尊敬的心對待食材。洗、切、烹調。烹飪者尊敬食用者,食用者尊敬烹飪者。只要這樣做到,即使是簡單的菜肴也可以做得美味。
私は、「敬う心」だと思う。 天と大地、生き物、農民、料理する者、食する者を敬う心。 敬う心を持って食材を扱う。洗って切って火を入れる。料理する者は食する者を敬い、食する者は料理する者を敬う。それさえできれば、簡単な料理も見事に美味しくできあがる。
即使是使用相同的食材、份量和方法製作出的菜餚,如果忘記了敬畏之心,也無法做出美味的菜餚。這不僅僅是一句空洞的話,而是我每天都深有體會的事情。在工作壓力大、心情不穩定或是有什麼不如意的日子,無論做什麼菜都會讓人感到不夠滿足。就算吃下去,也會感到美味不足的感覺。當我思考「缺少什麼」時,總是回到「敬畏之心」,而不是鹽或糖。
同じ食材、分量、要領で作ったものであっても、敬う心を忘れていては美味しいものはできない。これは綺麗事でもなんでもなく、私が日々痛感していることだ。仕事に追われて心に余裕がなかったり、何か不満がある日なんかは、何を作っても物足りない味になる。食べても、美味しいが足りないように感じる。「何が足りないのか」と考えたときにいつも辿り着くのは、塩や砂糖ではなく、“敬う心”なのだ。

因為我的職業性質,常常讓我意識並反思「對我而言飲食是什麼」,但我從未把這些想法寫成文字,現在我終於能夠在此留下自己目前的想法,這真是太好了。隨著經驗的增長,我的想法也一定會改變,哪一天當我再次回顧翻看這些文字時,希望會覺得「當時的我雖然說出了一些想法,卻顯得那時候還太年輕了。」

職業柄、「私にとって食とは何か」を常に意識し考察しているのだが、こうして文字に起こすことはなかったので、今回ここに今の自分の考えを残すことができて良かった。 きっと、様々な経験を重ねると共に考えも変わり、いつかこれを見返したときに「分かったようなこと言ってるけどまだまだ未熟だな、私。」なんて思うのだろう。そうであってほしいな、と願う。
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